2010年11月10日水曜日

46歳の隠居生活

 40歳代の隠居生活は20歳代のころから想定していた。ただ、それを隠居とは認めてもらえないとも思っている。プータロー、フリーター、最近ではパラサイトと、いろいろと呼び方がある。

 山中慎一朗は隠居と呼んでいる。民法でも隠居の制度があったが、日本国憲法の施工と同時に廃止された。つまり隠居と呼んでも法律上の問題はない。

 では、なぜ「隠居」なのか?

 46歳となり、社会のシステムが見えた。もちろん全てではなく、日本という民主主義の社会が進もうとしている方向性が見えた。それに乗らなくては、日本では生きていくのが難しい。かといって、海外で暮らそうとも思わない。それで「隠居」となる。

 日本という国の中で生きてゆきながら、日本が目指す生き方が出来ないので「隠居」。プータローともフリーターとも違う。

 1960年代のヒッピーが近いのかもしれない。日本ではフーテンと呼ばれていたようだ。フーテンの寅さんも死んでしまった。

 果たして、このご時世の中で隠居できるのであろうか?が最大の課題。まず、無理でしょう。

 でも、してしまおうと思うのが山中慎一朗である。これは、2度目のチャレンジ。一度目は失敗した。今度はどうなのだろう。また、すぐに就職してしまうかも知れない。先は見えない。

2010年11月9日火曜日

見てもらいたくないブログ

 ネットにデビューして13年目となる。初期のころのものはネットから消え去ったが、2006年頃からのものは未だに一部残している。

 独り言をネットに書き残している。誰かに見てもらおうとも思わないのだが、このごろはネットが一番安全な保存方法かと思う。パソコンは次々と入れ替わり、どこからでも残せるのがネット。

 自分が何を考えて生きているのかをリアルタイムで残せる。それがネット、ブログだ。

 アクセスする限りネット上に残る。

 いろんなことを書いていると、だんだんとエスカレートして、誰かに見てもらいたくなる。読んでもらいたくなる。でも、独り言も残したい。そんなことを繰り返して、10以上のブログとなった。

 今度こそ、誰にも見てもらわなくても、読んでもらわなくても良いブログにしたい。

 そんな思いのブログ。

 身元は常に明らかにしている。

我慢して生きなければいけない世の中。

 今日、NHKのニュースで秋葉原事件の裁判がニュースとなっていた。

 「みんな我慢して生きているのだから、ブログが荒らされたからと言って、」といったような被害者の親族のコメントが報道された。

 ここで山中慎一朗が注視したのは「みんな我慢している」だ。そんな世の中が当たり前になってしまって、そんなことを平気で裁判で物申して、NHKが報道することだ。

 誰も止められなかった。「みんな我慢している」

 「みんな我慢する」世の中を当たり前にしていいのだろうか?

 秋葉原事件が起こる前に「みんな我慢している」世の中をどうにかしようと誰も思わない。

 今の世の中に馴染むことに一生懸命。稼ぐことに一生懸命。うまくやることに一生懸命。うまくやれない人は必要ないのだ。だから死刑になるだろう。

 裁判官も弁護士も被害者の親族も、世の中のすべての人が彼を必要としない。それは、この事件が始まってからのものではなく、それ以前から始まっていた。

 なるようにしてなっただけ?